メインのブログを休眠してる間の
文章練習にと何となく始めたここも
なんか普通に更新してしまったなと
思ったりするのでした。
これからどんどんと
のんびり出来ない生活になると思うけど
なんとか寿命まで生き延びられたらいいなあ。
なんてね。
で、それで分かったけど
スタイルシートの
outer-wrapperのwidthの数字をいじれば
くっつき過ぎたメインとサイドの間を広げられるようだ。
メインとサイド自体の幅を変えずにその間の幅を広げられる。
なので最初の設定が660pxなのを700pxにしてみた。
タイトルのボーダー幅より広くなってしまったのが
ちょっと気になるけどまあ許容範囲内。
タイトルのボーターの幅の広げ方は調べてないです。
そのうちもう少し広げるかも。
Bloggerカスタマイズ情報ブログ
http://customize-your-blogger.blogspot.com/
Google BloggerブログHacks Tips Tweaks
http://blogger-customize-tips.blogspot.com/
こちらはブログ関係のニュースや情報を扱っているブログ
THE BLOG HERALD
http://jp.blogherald.com/
wakaikoronokoukaihaさん
あそこは『幻想世界』という場所です。
幻想世界そのものの詳細はわかりませんが、CLANNAD世界の奇跡(アフターストーリーの最後で多分起こります)のための重要な装置になります。
まぁネタばれおkという事ですので……
これは推測ですが、この幻想世界は一ノ瀬ことみの両親が研究していた「超統一理論」による「この世界の成り立ちそのものを、いちばんきれいな言葉であらわすための何か」ではないかと考える事が出来ます。
そうなると気になるのが、実在する研究中の理論「超ひも理論」の「影の宇宙」との類似性ですね。 もしかしたら幻想世界はこの世界に寄り添うように存在するという影の宇宙そのものなのかもしれません。
次に、あの世界にポツンといる「少女」は岡崎汐(これから生まれる朋也と渚の娘です)、ガラクタロボット?は岡崎朋也と思われます。
本人なのか、転生した姿なのか、並行世界なのかはわかりませんが、とにかく「存在」は同じであると思われます。
原作で見る限り、『幻想世界』は現実の『あの町』に住んでいる人々の『想い』で作られている模様です。そのため幻想世界は町(人々)の意志そのものであり、人々の幸せの象徴である『光の玉』は幻想世界から会得している(アニメだとはっきり出てきませんが、原作では登場人物の誰かが幸せになるたびに光の玉が顕れています)と考えられます。
その幻想世界をさまよう「朋也=ロボット」が「汐=少女≒渚」を幸せにしたい、救いたいと真に願った時、それに人々の幸せを願う「町」の意思が重なったときに『奇跡』が起こる……それが『CLANNADの物語』のクライマックスになります。
glass_blue_moonさん
いわゆる「幻想世界」というヤツですね。
この部分は明確な解答はなく、あくまで読者の解釈によって分かれますが。
私なりの解釈を少しだけ。
幻想世界の少女は汐という仮説を立てます。幻想世界とは街の意志。
そして渚が幻想世界の記憶を持っていた、という事から推測すると、幻想世界は現実世界とは真逆に進む、という事。 汐の死によって少女は生まれ、少女が力尽きると渚が『あの場所』で甦った、という意味です。
『あの場所』とは病院の木の下、タイトル画面でも出てくるあの木ですね。そして幻想世界では小屋のある場所とリンクしています。
つまり幼い頃一度死んだ渚を、木の下に連れて行ったことで幻想世界とリンクした。 結果的に幻想世界の少女が消える代わりに、渚は助かるものの、いずれ渚の命は幻想世界に戻る必要がある。
では渚の病気とは何か。
ゲーム中に出てくる渚の病気描写はおよそ3度。
文化祭の後、正月明け、そして三年目の春。
具体的な描写は少ないものの、彼女が病気を起こした時、ファミレスの完成、病院の工事、といった『街の変化』とリンクしています。 つまり街が変化していくごとに、街の意志と同化している渚に深刻なダメージとなって返ってくるという訳です。
ロボットは主人公。少女は最後にロボットをパパと呼ぶ。
渚の死と汐の誕生によって街の意志は汐に移ったと思われる。
つまり少女とリンクしているのは汐であり、
彼女がパパと呼ぶ以上、ロボットは主人公となる。
細かい話になりますが、汐は旅行先でロボットを失くしています。
恐らく、あれが幻想世界のロボットの原型でしょう。
まとめ。
渚が街の意志によって助けられ、街と同化する。
結果、街のダメージと出産が重なり、彼女は死亡するものの、
再び街の意志によって汐だけは助かる(汐が同化)。
同化した汐も再び街の意志によってダメージを受け、
死亡し、主人公の世界も閉じる。
現実世界が終了し、幻想世界に移行。幻想世界は時間が逆転。
ロボットが誕生(ロボットは主人公。現実世界に絶望し、幻想世界へ)。
ロボットと少女が交流を深めていく(これは主人公と汐(渚)との交流の暗示だろうか)。
少女の存在と引き換えに、幼い頃の渚を復活させる。再び現実世界へ。
これを繰り返していくが、光の玉(街の意志)によって、新たな可能性へと向かうことが出来る。
それがクラナドにおけるハッピーエンド。
新たな可能性によって、汐と少女のリンクが解けたので、最後のシーンでは少女が姿を現す事が出来たのでしょう。この辺はただの希望的観測ですが。
という感じでしょうか。
もちろん人によっては他の受け取り方があるでしょうし、公式で発表していない以上、正しい解答なんて存在しないと思いますが。
trickstartripさん
あれはいわゆる幻想世界というやつです。
ただ、ことみの研究している「かくされた世界」との見解もありますが、わたしはちょっと違うかなあと思います。
というのは、「隠された世界」というのは、あくまでも物質的な世界のことで、現実に研究されているものです。パラレルワールドといってもいいかもしれません。つまりあったかもしれないけど、選ばれなかった未来ということです。そして、選ばれなかった未来は消滅するのではなく、それはそれで存在する、というものです。
対して幻想世界というのは、科学的というよりは、神道を主要な背景にもつものだと思います。
幻想世界というのは「終わってしまった世界」だとロボットがいっていますが、これは常世(とこよ)とよばれる世界で、常に変わらない世界、永久の世界を表します。そこには時間軸が存在せず、この意味で、現実世界とはパラレルに考えられなくなります。
常世と対になるのが現世(うつしよ)、つまり現実世界で、その境界とされるものの一つが「神木」です。常世というのは神の住む聖域で、氏神様が住んでいます。渚が死にかけた時に連れて行かれた場所にあった木こそが、この「神木」に当たります。
ということは、幻想世界に住む少女は、CLANNADの舞台となっている町の神様であると考えられます。神様といっても、万物の創造主みたいなたいそうなものではなく、氏子(住人)たちの親みたいな存在で、かなりローカルなイメージです。
ところで渚が死にかけた時に何が起こったかということですが、あの時、じつは「神降ろし」があったとわたしは踏んでいます。
「なぎさ」という名前は、神の依り代となる「なぎ」という木、もしくは巫女(巫、かんなぎ)を連想させます。
そして、その降ろした神こそが汐だと考えられます。
ということは、幻想世界の少女とは汐のことだといえるわけです。
で、ロボットですが、あれは大方の見解の通り、朋也の事だと思います。最終回で、少女が「パパ」と呼んでいたし。
幻想世界には、少女いわく住人たちの想いが「光」になってあらわれます。そして朋也もその一つだったということでしたから、少女は組み立てたロボットにその思いたる「光」を吹き込んだのではないでしょうか。
先に全体の感想を簡単に言えば
パッとしない創刊号だったな、という印象。
ゲッサンのオフィシャルサイトで
編集長代理の人が熱く?語っていた事などから
漫画好きな人のための漫画雑誌ではなくて
普段漫画を読まない人へも向けた誌面作りかなと
あとバトルより日常描写重視の漫画がメインかなと
そういうのを期待していたのだけれども
創刊号を読んだ限りでは普通の微妙な雑誌という感じだった。
ただ、自分の年齢が中年に属していて
この雑誌のターゲットとしている層ではないはずなので
だから自分の趣味と合わなくても当然だとも思う。
安定して面白いと思ったのは
あだち充の『QあんどA』
あずまきよひこの『あずまんが大王 補習編』
島本和彦の『アオイホノオ』
ヒラマツ・ミノルの『アサギロ』
かなあ。
結局ベテランと中堅漫画家の作品が面白かった。
いっそベテラン・中堅中心の雑誌ならいいのに。
もっと連載本数が少なくてもう少し値段も安ければ
この4作品の連載があるというだけで購読したくなったかも。
それなりに面白かったかも?と思ったのは
田辺イエロウの『バースデイ』
荒井智之『イボンヌと遊ぼう!』
杉本ペロ『権力の犬 ポリスワン!』
森尾正博『ザ!!ビーチスターズ』
これらは読んでいてあまりストレスを感じなかったという感じ。
積極的に面白い!って言う気にはならないけど
まあまあかなあ、という面白い寄りの普通な作品。
どうにも苦手だった、というのは
作画が坂ノ睦の『忍びの国』
あおやぎ孝夫の『ここが噂のエル・パラシオ』
小説だけど鯨統一郎の『タイムメール』
ちなみに『よしとおさま!』と『月の蛇』も
部分的に苦手寄りという感じ。
他の連載は一応は普通。
一番気になったのは、創刊号だというのに
これらの連載で新鮮な何かが始まるって感じがしたのは
完結していた作品の続編である『あずまんが大王』だけだった、
という事だった。新人にいまいちフレッシュな感じがしなかった。
でも自分の小学館系の漫画の印象って言うのは
地味だけど安定してるって感じなものなので
荒削りだけど新しい何かがある的でないのは
小学館のカラーなのかなとか勝手に思ったりもする。
大ざっぱな分類をしたけどこれでは何が面白くて
何が苦手だったのかさっぱり分からないので
次の記事に各作品の個別の感想を簡単に書く予定。
鉄の吸収を妨げるものとしては、例えば、
フィチン酸…
玄米(発芽玄米は除く)、全粒粉の小麦粉、豆類の皮、ゴマ(鉄分も含まれる)、ぬか、ふすま、等に含まれています。
シュウ酸…
ほうれん草(茹でない場合)等。
タンニン…
緑茶、紅茶、コーヒー等に含まれています。(ほうじ茶、ウーロン茶は除く。)
アスコルビナーゼ…
キュウリ、ニンジン、キャベツ、カボチャ、シュンギク、カリフラワー、トウモロコシ、メロン、リンゴ、バナナ等に含まれています。(加熱しない場合。お酢やレモン等を使用しない場合。)←アスコルビナーゼはビタミンCを破壊するため。ビタミンCは鉄分の吸収を促進させる。
カルシウム…
カルシウムは鉄分の吸収を妨げます。
ミートファクターを持たないタンパク質…
ゆで卵、牛乳、チーズ、大豆等。
食物繊維…
過剰摂取した場合は鉄分の吸収を妨げる。
炭酸飲料…
炭酸飲料やビール等。
鉄分の吸収を促進してしまうものとしては、例えば、
ビタミンC…
新鮮な野菜や果物等に含まれる。
動物性タンパク質…
肉、赤身の魚、レバー等に含まれています。
クエン酸・酢酸・リンゴ酸…
柑橘類、お酢等に含まれています。
銅…
ミネラルの銅は鉄分の吸収を促進します。
動物性の脂肪分…
動物性の脂肪分は鉄分の吸収を促進します。
加熱調理…
加熱調理することによっても鉄分の吸収は促進されます。
鉄分を豊富に含むものとしては、例えば、
レバー類、コンビーフ缶、うなぎの肝、赤身の魚、カツオ、マグロ、魚の血合い部分、ホタテ、牡蠣、ハマグリ、シジミ、アサリ、納豆、大豆、油揚げ、湯葉、ゴマ、松の実、カシューナッツ、アーモンド、小松菜、ほうれん草、パセリ、卵の卵黄、青海苔(乾)、ひじき(乾)、切り干し大根(乾)、干しぶどう、きくらげ、干しえび、抹茶、ピュアココア、等々です。
↑かなりばらつきがありますが…。
食べ物で鉄分の吸収を妨げるとか促進させるとか、そういった事は個人個人の体質等で吸収率も違ってきますし、確実とは言えないと思います。通常、食品には様々な栄養素が含まれていますし。
今月もお気に入りの古書店が閉店する。
そのお店は他のお店に吸収される的な形で
そのお店は遠くにあって気軽に行けない距離なんだけど
CDに凄い掘り出し物があったりして
自分の好みの音楽が結構置いてあって好きだったから
撤退してしまうのはけっこう悲しい。
その店の前の通りをもっと南下した所に
これもまたかつて古書店があった。
そこもまれに掘り出し物があって
買いそびれて後悔してる画集があったりもする。
古書店も中古CD店もどんどん閉店してるし
ゲームショップもほとんど潰れてしまった。
気軽に入りやすかった洋服店も閉店した。
靴屋もどんどん無くなっている。
近所にあったお店も古い民家も
どんどん消えて新しい家や駐車場になってる。
年を取るってことは
こういう事を感じるって事なんだな。
こういう体験をくり返し続けるのだな。
なんだか凄く悲しいけど
この土地は、この町は、
自分のためのものじゃないから
若い人これから生まれる人
自分とは感じ方の違う人の土地でもあるから
他の人が生きていくには
これでいいのかも知れないとも思う。
でもとても悲しい。
すごく悲しい。
老いるということは、自分の体が老いても
回りの建物はずっと一緒には老いてくれないって事だ。
どんどん新しくなる、昔あったものが分からなくなる。
何が新しいか分からなくなる。
力が入らない。
まず、ヘーゲルは、動物はなにも「否定しない」と言います。
たとえばジェスチャー・ゲームを想像してみて。
「食べる」「歩く」「話す」なんでもジェスチャーで表すことができますよね。
ではこんど、この「否定形」をやってみてください。
ここには「いない」。あるものが「ない」。それを動作で表現することは不可能なんです。
言葉を使う人間だから、初めて「否定」できる。
言葉の機能は、否定においてその真価を発揮するのです。
「わたしはここにいます」というのは、普通の状況では言う必要がない。
その人が実際にいるのだから。
けれど、「そのときわたしはそこにはいなかった」というのは、言葉にしかできないことです。
「言葉」とは、何よりも「否定」ということなのです。
そしてこの「否定」の能力はどこから生まれたか。
ヘーゲルは、それは〈死〉からだ、というのです。
動物は、〈死〉を理解しません。人間のみが〈死〉を恐れ、嫌悪し、不安を抱くようになる。そうして、恐れと不安に引き裂かれつつも、それに耐えて正面から見つめることで、〈死〉を〈否定の力〉へと抽象する能力を持つ。
だから、この「否定」ということは、人間と動物を分かつものとなるわけ。
さて、なんでこのヘーゲルの『精神現象学』を講義したコジェーヴは、戦後アメリカで台頭してきた消費者を「動物」と呼ぶのか?
それは否定しないからです。この点は東さんの本に簡潔にまとめてありますね
「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる」(p.97)
じゃ、スノビズムはどうなのか。
もういちど、オックスフォードの説明を見てください。
この "a person" は現実には "lower-class" なんです。だからこそ、高い社会的地位や富といったものに、必要以上のあこがれを抱く。もしかしたら貴族にあこがれを抱いている中流階級かもしれませんが、ともかく、なんにせよその人が置かれた環境に決して満足していないのです。
だけど、そんなことができるのも、その人が現実には満たされていることが前提となっている。明日の暮らしにも事欠くような人、生存が脅かされているような人が、社会的地位や富にあこがれたりはしないでしょう。
だから、
> 与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにも関わらず
というのはそういうこと。ではつぎの
> 形式的な価値に基づいて
はどういうことかというと、その "a person" があこがれているのは、すでに評価の定まった中流階級的な、もしくは上流階級的なライフスタイルであり嗜好である、ということです。
> それを否定する行動様式のことをいう
そうして、その人は自分が現在置かれている環境を否定する。
" dislikes people or activities regarded as lower-class" っていう部分がぴったり当てはまりますね。
まさに辞書的意味における「snob」ときれいに一致しているといっていいでしょう
なので検索などした結果、直前に入れたアドオンが原因で
そういうアイコンが消える現象が起こるらしいのが分かった。
その件についてと解決法が書かれた記事がこれ↓
ブックマークツールバーが消えたときは。
http://mozilla-remix.seesaa.net/article/32300579.html
というわけで、記事に書かれている事に従って、
一番新しく入れたアドオンを無効にして再起動させてみると
ツールバー自体には相変わらずアイコンは消えたままだけれど
ツールバーの部分で右クリックして出るカスタマイズで
ウィンドウを開くと、その中に、前には消えていて、
且つ、前にツールバーに出していたアイコンが復活していた。
なので、復活するといっても、またちまちまと自分の手で
ツールバーにアイコンを移動し直さないといけなくて面倒なのだけど
とりあえず前の状態に戻すことが出来て良かった。
でもこういう現象があるといくら便利でも詳しくない知り合いに
firefoxをオススメすることはちょっと出来ないかなあ。
解決方法が書かれたURLはすぐには見つけられなかったんだけど
でもこういう情報が載っているのはやはりありがたい。